第6話「母と娘」
定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規定も定めた。
私の神。
どうか私を覚えて、いつくしんでください。
‐ネヘミヤ記13章31節‐
異獣の群れが村へとなだれ込もうとしている。
靴屋の娘サンドラはその恐ろしい光景を前にしてただ手を合わせて祈ることしかできないでいた。サンドラの暮らすグリンバグはのどかな村だった。穏やかな風とどこまでも広がる平原。羊を飼い彼らの乳や肉で暮らし、時折訪れる行商のものから生活品と羊毛を交換する。その程度でも村のものたちが暮らしていける。短く厳しい冬がきて食べるものに困ることもあったが、それでもサンドラは冬を越えて訪れる陽光の暖かさを神に感謝していた。
その平穏も目の前で崩れ去っていく。
異獣の正体は村で飼っていた羊の群れだ。
彼らは力(フェイス)を帯びて村の柵を突破し家屋を薙ぎ倒し人を踏み潰していく。隣の家のケイヤも、おしゃまのダルスも、花飾りをくれたクラインも、みんなみんな潰された。今までサンドラの人生を彩ってくれた彼らが生き物ではない塊になる光景を血のにじむ赤い視界の中でぼうっと眺めている。崩れた家屋の破片に呑み込まれて骨が折れて足がひしゃげていた。だが瓦礫に埋まったおかげで異獣の行進から逃れられたのは皮肉な奇跡でしかない。
きっとサンドラ以外に生きているものはもういないだろう。たとえこの場を生き延びても家族も友もすべてを喪失したサンドラに生きる目的などありはしない。
なのに。
「か、み……さま」
それでもサンドラは祈る。
「お願いです。どうかお助けください。哀れなこの迷い子をどうかお導きください」
異獣の進路がこちらへと向く。サンドラは朦朧とする意識の中で最後まで祈り続ける。はたしてその願いは聞き届けられた。
現れたのは純白の衣に身を包む白髪の乙女。
救世主ヤハと人は彼女を呼ぶ。
ヤハは天から地へとふわりと降り立つ。純潔の白雪が人の姿をかたどって具現したかのようだった。この世のものとは思えない幻想的な可憐さにサンドラは家族の死も一時に忘れて目を奪われた。風が吹き抜けて甘く爽やかな香りに包まれる。
「主よ」
ヤハは異獣の群れの前へと立ち塞がる。
「どうかこの哀れな異獣たちをお救いください」
ヤハが祈りを捧げると天から雲が渦巻き激しい音を連れて雷が降り注いだ。尋常ならざる威力を誇る力(フェイス)の雷である。
「神を愛する兄弟たち(ボア・ネルゲス)」
荒れ狂う雷が異獣の群れを薙ぎ払った。力(フェイス)に目覚めた羊たちが焼け焦げ、肉片も残さず塵と化していく。五大災厄にも数えられる異獣をいともたやすく退けるその御業はまさしく奇跡。サンドラは目の前の信じがたい光景を瞳に刻み付けようと片時も目を離さなかった。サンドラが救世主の弟子を名乗る女性たちに助けられた頃には、異獣など本当にいたかも分からないほどにすべてが消え去っていた。
残ったのは崩壊した村の瓦礫。
「埋葬を手伝いましょう」
芳醇なるジュダを名乗る弟子の一人がそう申し出てくれた。すると他の人々もサンドラに手を貸してくれて、村人の埋葬は二日ほどで終わることができた。折れた足ではろくに作業もできないはずだったが救世主たるヤハがサンドラの傷ついた足に触れるとたちどころにサンドラの折れた足が治った。
天から荒ぶる雷を降臨し治癒の奇跡までも施すヤハは紛れもなく人々の救世主である。
サンドラは滅びた故郷を離れてからその逸話を各地で伝え回った。
「ヤハ様こそ天から使わされた救世主です!」
自分が五感で体験したあの出来事をできるだけ多くの人に伝えたかった。大終焉なんて怖くはない。ヤハ様とそのお弟子たちさえいればきっとどんな終末も恐れることはない。
「ヤハ様に祈りを捧げましょう! そうすれば私たちは救われます!」
はたして靴屋の娘サンドラの熱意と言葉は多くの人々の心に響き、ヤハに救いを求める者たちはその数を増やしていくのだった。
納屋に敷かれた草わらの上で救世主たるヤハは聖典イコに抱きしめられている。
「ママ、あたし頑張ったよ」
「ええ」
「羊をね、異獣に変えたの」
納屋には二人きり。使徒である聖典イコとそのパートナーであるヤハだけ。外には数人の高弟が控えていたが中の様子を窺うような不心得者はいない。たった二人だけの空間。ヤハには必要不可欠な何よりも価値のある時間である。
「鐘の音のペトロスっているでしょ、彼にお願いして力(フェイス)で獣を狂わせたんだ」
ヤハは平原の村グリンバグで起きた出来事を嬉しそうにイコへと報告する。
「本物の異獣には劣るけど、普通の人は異獣なんて見たことないもの。信じさせるのは簡単だったよ」
「そう」
「それでね、えっと大体の人間が潰されたら良い頃合いだから私が登場して、あっ、ジュダにも力を使わせて洗脳しやすくはしたの。彼女は匂いを使うのが上手で……」
「そう」
ヤハは語彙力も失い、あちらこちらへ話を散らかせるがイコは優しく彼女の話を聞いている。
「すごいわ、ヤハ」
イコが頭を撫でるとヤハは顔を綻ばせ彼女の膝の上に頭を乗せた。
「うん、すごいでしょ! あたしね、もっと頑張る! いっぱい人を信じさせてママを一番にしてあげるの!」
「ありがとう、ヤハ」
「ロルムや帝國に反感を抱いている人はたくさんいるから、そういう人たちも全部信じさせてね、全部救ってあげるんだ」
救うとは。信じさせるとは。
ヤハは言う。
「みんな救われたいんだ。だから救ってあげる。少し怖い思いはさせるけどどうせあたしがやってきたら安心するもの、いいよね? ヤハ間違ってないよね?」
彼女は信仰心を集める為に村を一つ滅ぼした。
「ええ、ヤハ。貴方は間違ってないわ」
聖典イコは愛おしそうに彼女を抱きしめる。
「私のヤハ。貴方のやっていることは正しい。私をもっと助けて。この世界をもっと救ってあげてね」
「うん、うん! あたしもっともっと頑張る!」
イコから惜しみなく注がれる愛にヤハは心から笑顔を浮かべる。その笑顔に悪意はなくあるのは純粋な愛の約束のみ。捨て子として死を待つだけの運命だったヤハを御子として育ててくれた。ヤハはイコに褒めてもらう為ならどんな踊りでも踊るだろう。
「でもね、奇跡を使うといっぱい信者の命を使っちゃうから困るの、どうしよう……」
ヤハの懸念はそこにあった。雷を降臨させ怪我を治す。多種多様な力を使えるヤハの能力にはそれ相応の条件も課せられている。これはヤハに限った話ではない。
能力の限界を越える力は信仰心のみならず信者の命をも吸い上げる。
逆説的に言えば信者の命を消費すればあらゆる奇跡を顕現させることも可能となる。これは一部の使徒にしか認識されていないこの戦いの裏ルールであった。使い方を間違えれば自分たちに集まる信仰心を激減させる恐れすらある。
「簡単じゃない。使っただけ増やせばいいの」
聖典イコはいとも容易くそう指示した。
「うん! そうだよね、使ったなら増やせばいいんだ!」
二人は笑いあった。
傀儡の救世主にして神の子、ヤハ。
母なる愛を与える使徒、聖典イコ。
「ママ、あたしたちが絶対一番になろうね!」
「もちろん」
彼女らの相性は破滅的なほどに抜群であった。