第1話「獣の拳」
何も思い煩わないで。
あらゆるばあいに感謝をもってささげる祈りと願いによって。
あなたがたの願い事を神に知って頂きなさい。
‐ピリピ人への手紙4章6節‐
肉を。
肉を断った。
肉は切るのではなく断つものだと。
先代の親方が口うるさく話していたのを今になってよく思い出す。
「旦那。そろそろ」
セルジオは雇い人からせっつかれて包丁の手を止めた。
「ああ」
料理如きに何をやかましく蘊蓄を垂れるなと思っていたがどうにも同じ道をたどりそうな気がしている。
「今行くよ」
右肩が重い。床を擦りそうになる指先に気を付けながら、ゆっくりと歩いていく。
厨房を出て倉庫へと向かう最中、中庭では生温い風を感じることができた。港町であるゼーヴィンでは時折海の向こう側からこういった風が吹いてくる。セルジオはこの町が嫌いではなかった。港以外なにもない土地だが海の恵みは神からの恵みだと教えられて育ってきたし、今でもそれを信じ続けている。
いつからだろう。
その海から得体の知れない生き物が揚がるようになったのは。
いつからだろう。
町の連中が奇病で苦しむようになったのは。
いつからだろう。
町に病が蔓延するようになったのは。
医者にも祈祷師にも薬師にも治すことができず、周囲から「奇病の町」と恐れられるようになったのは。
「旦那、あんたの腕は」
セルジオの後ろをついてきていた男が尋ねる。
「その、移ったり……するんですかい」
問われたセルジオはにこりと微笑んだ。
「いいや、移るものじゃない」
黒ずんで大きく肥大した右腕を軽く動かしてみる。人間の身体には不釣り合いなサイズの腕だ。巨人の腕を間違って取り付けたようなちぐはぐ感があって不気味である。肥大化してバランスは悪そうだったが、それでもその右腕はセルジオの意思で動かせる。外から出稼ぎでやってきている雇い人の男は少しほっとしているようだ。
奇病の町の噂は聞いていたが、実物を目の当たりにして怯んだのだろう。
セルジオはことさら明るく口元を引き上げる。
二人は倉庫の前に着いた。
「それよりも」
「あ、ああ、分かっているよ」
男は倉庫の鍵を取り出し、扉を開く。肉の保管庫として利用しているだけあって倉庫の扉はエルニウム製の頑強なものだった。
「旦那の注文通り、活きの良い奴等を運んできたぜ」
暗がりに光が差し、中にいたものたちがびくりと身を震わした。
互いに身を寄せ合い、恐怖で涙をすするものもいる。
倉庫には鏡や台座などが緻密に置かれており、壁面には複雑な模様が生き物の血によって描かれている。野蛮な雰囲気はなくどこか知性すら感じる神聖な祭壇であったが、台座の上に置かれた杯に積まれた眼球だけは怪奇的であった。
「どこの産地だ?」
「ボレアース山脈の方だよ。あの辺はまだ取り締まりも手薄でね」
悪びれもせずに答える。男は野盗の一味だった。聖騎士団の警備が薄い山道を進む商馬車を狙って襲い、商隊が安く雇っていた子供を売りさばく。セルジオはこの手の人間を使うのは初めてだったが、見事の手際だと妙に感心した。
子供たちは怯えた顔でこちらを見ている。
縛られた手足は逃げようとしたせいか朱く擦れており血がにじんでいて痛々しい。
「全部で13ルクスでいいよ。払えるか?」
「ああ、もちろん」
「しかし旦那も酔狂だね。こんな子供たちを一体何に使うんだ?」
「何に使うと思う?」
セルジオの微笑みに男は口元をひきつかせた。
「いや、聞かなかったことにしてくれ」
男は右手を差し出した。
「旦那が何をしようが関係ない。俺は報酬が受け取れればそれでいい。だろ?」
物わかりのよい男だった。さすが野盗を生業としているだけあって引き際を心得ている。
セルジオは懐からルクス金貨の入った袋を男に向かって投げた。
「へっ、毎度あり」
ジャラリッと袋に詰まった金貨の音を確認した後、男は中を確かめようときつく締められた口紐をほどこうとしている。
セルジオは倉庫に立てかけてあった肉断ち包丁を右手で掴んだ。
刀身1メイルはある巨大な包丁だ。赤身で骨太なトゥーナなどを解体する時にも使うもので鋸状の刃に改良された特殊な包丁である。
解体の際には2人がかりでようやく使える代物だが、セルジオの右腕は肉断ち包丁を悠々と持ち上げ、振り下ろす。
肉断ち包丁が男の右手を切り落とした。
「あっ、がっ!?」
男が苦痛を漏らす。
セルジオは左手で男の首を掴み、壁に叩きつけた。男は必死で抵抗し、セルジオの手を外そうとするが左手の一本ですら常人の力ではなく太刀打ちできない。
「この病の名は鬼人病(デモンズ)というんだ」
呼吸すらままならず、男の抵抗力がしっかりと弱まったことを確認するとセルジオは彼の左目をえぐった。
「神はいつも我々に試練をお与えになる」
生きたまま左目をえぐられて男が足をばたつかせるが、セルジオの瞳に彼は映っていなかった。恍惚とした顔でどこかを見つめている。
「捧げものを常に求めておられる。我々はただ神を敬い、神へと献身するのみ」
左目を取り出し終える。
セルジオの興味はもう男になかった。左目がなくなった人間に興味などない。肉として後で処理する工程を頭の中で反芻する。
「さあ、君たちの番だ」
子供たちに近付く。涙に濡れる子供の瞳は美しかった。キラキラと輝き澄んでいる。セルジオは子供の瞳が好きだった。
「捧げものは美しく貴重であればあるほどいい」
病に耐えられず全身を膨れ上げさせて死んだ息子のことを思い出す。セルジオはそのことを思い出すたびに灼熱で身が焼かれそうになる。
「神は求めている。我々の献身を」
一番後ろで身を隠していた少女の首を掴み上げた。
「いけない子だ。みんなの影に隠れているなんて」
手足を縛られ抵抗すらできない少女に怒りをぶつける。
「どうしてそんなに怯えるんだい。神は我々に捧げものを求めているんだ。左目を捧げなければこの町は滅びるんだ。君が左目を捧げれば神は私たちを救ってくれるんだよ」
少女はかすれた声で訴える。
「か、神様はそんなこと求めてないよ」
「嘘をつくなぁぁぁぁ!!」
セルジオは少女を床に叩きつけた。
「神は求めているのだ! 捧げものを! だから我々に苛烈な試練を! 私たちは左目を! シルドラ様が仰っていたのだ! 左目を捧げ続ければ神は救いをお与えになると! 大終焉(カタストロフィ)からお救いになってくださると!!」
少女を痛めつけるセルジオの肉体はすでに人間のそれではなかった。
身体は肥大化し、黒ずんだ右腕はより禍々しく変形している。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
少女が涙ながらに許しを請えば、セルジオはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、さあ、左目を開けなさい」
セルジオが慈愛に満ちた笑みで少女の顔を掴み、指を近づける。
少女は小刻みに震えて歯を打ち鳴らしている。
「間違ってる、こんなの、神様は本当にこんなこと……」
いまだに何か世迷言を呟く少女を無視して、セルジオはその琥珀色の綺麗な瞳に指をかける。
金属の重い軋む音が響く。響いてきたのは倉庫の入り口から。
「だれだ?」
セルジオは振り向く。
立っていたのは一人の青年。灰色のぼさぼさとした長髪が全身を包み込んで毛綿の塊のようになった獣が如き青年が立っている。
町の人間ではない。こんな奴を見たことがない。ならこの男の仲間か。
セルジオは少女を放り投げて、肉断ち包丁を掴んだ。
「どこから入ってきた? ここで何をしている」
問い詰めると青年が首を傾げる。
妙な雰囲気をしている。灰色の長髪は埃や泥で汚れている、服も服とは呼べぬ布切れのような代物。乞食の類にも見えるが卑屈な部分がなく自然体でそこにいる。ちょうど猫が気になるものを見つけて塀から降り立っただけのような気さえしてくる。
じっとこちらを見つめる瞳にセルジオはいささか気味が悪くなったが、この場を目撃された以上帰すわけにもいかない。
「あ……あう……?」
青年はセルジオの足元でうずくまっている少女を気にして何事か呻く。
「たすけ……て」
少女がか細く呟くがセルジオが肉断ち包丁を振るった音でその助けを求める声はかき消された。
肥大化したセルジオの剛腕で振るわれた斬撃は青年の首を容易く跳ね飛ばす。はずだった。実際には青年の首は飛んでいない。青年が獣のように四足歩行で地面に這いつくばったからだ。
セルジオは叩きつけるように肉断ち包丁を打ち下ろす。
青年が後ろに飛び退けてかわした。刃を怖がる姿はまるで獣のそれだ。そして次に垣間見せたのは獣が持つ牙そのものであった。
青年が拳を突き出した。
拳打。
獣と思っていた青年が繰り出したのは紛れもない武術。
拳を握り己が肉体で生み出す武そのもの。
獣の拳がセルジオの肉体をえぐった。
悲鳴すら上げられない。上げる隙すら与えられない。
青年が次々に繰り出す拳がセルジオの身体に風穴を開けていく。奇病に侵された鬼人(デモン)の身体がこんなにも容易く破られるなんてあり得ない。セルジオの肉体が膨張する。倉庫の天井を押し破るほどに巨大化し爆散した。肉体が病に打ち勝てずに崩壊してしまった。鬼人病の末期症状の一つである。
青年は倉庫にいた子供らを外へと避難させていた。
その早業とあまりにもあっけなく地獄から救い出された解放感で子供たちは放心している。
「あ……う……」
青年は喋られないのか。
涙をこぼす子供たちの前でずっとうろちょろとしている。
「あの、ありがとう」
少女が代表してお礼を言うと、青年はやはり首を傾げた。
「あなた、名前は?」
少女が尋ねても青年は答えない。代わりに少女の瞳からこぼれる涙を舌でなめとり、外から鬼人たちの声や足音が響いてくるとすぐに立ち上がった。
「ア……ス……」
青年は育ての親からそう呼ばれていたのを思い出したので久々に口にしてみた。
アス。
人でもなく獣でもないアス。我が愛しい仔よ。お前には敵を引き裂く爪もなければ、穿つ牙もなく、速く奔る足もないが、その手がある。お前の手に我々灰狼(ヴォルフ)の全てを授けよう。人に追われ灰狼が消えたその日の為に。
アスは拳を握った。
鬼人たちが押し寄せる。
祭壇を破壊され捧げものを奪われたことで、鬼人どもの怒りは最大限にまで高まり切っている。肉体が膨張し肥大化した鬼人の群れがやってくる。子供たちが怯えて震えている。
アスは感情を見せず怒りも恐怖もない。
拳を握り構える。
鬼人がやってくれば拳を振るい穿つ。襲い掛かる攻撃をかわし、手刀で切り裂き、指突で突き刺し、掌で押し潰す。町の住民たちはやがて怒りを鎮めた。鎮めるしかなかった。アスの周りに積みあがった死体の山を前にしてなすすべもなくなったからだ。
アスは何も感じない。
足を震わす鬼人たちが退いてできた道を躊躇なく歩いた。その後ろを贄としてさらわれた子供たちがついていく。
「ねぇ、あなたの名前アスっていうの?」
「あ」
「アス。私はね、ロキっていうの。神白沢ロキ。よろしくね」
「あー」
獣の拳を持つアスは何も語らない。
この出会いが己の運命をどのように変えるのかなど。
獣にはまったく興味のない事柄であった。