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第2話「聖なる鞭」

 天から彼らの祈りと願いを聞いて。

 彼らの言い分を聞き入れてやってください。

 ‐歴代誌6章35節‐


「ノア・ミッドウルフ」

 静かで荘厳な圧力に包まれた教皇庁の中心部ロルム宮殿にて。

 アビヤ・ホレフ大聖堂に隣接するロルム宮殿は教皇一族の住居であり、政の重大な決定が為される重要な施設であった。神聖なる祭事や政治の重大な決議を執り行う祭壇の間では多くの大司祭や聖騎士団長たちが集っている。みな固唾を呑みながらしかして希望に満ちた眼差しを1人の青年へと向けていた。

 教皇ベネディクト1世は彼の名を呼んだ。

「ノア。教皇国を守る盾にして聖なる鞭よ、こちらへ」

「はっ」

 ノアは前に歩み出る。青い髪の少年だった。髪をざっくばらんに切っていて、自分の見た目を気にしない幼い子供のような印象がある。

 瞳は青みがかった緑だ。宝石のような美しい瞳だった。

 ノアはそのエメラルドの瞳に教皇を映し、皆はノアの美しい相貌に視線を奪われていた。神聖なるロルム教皇と若き聖騎士。惚れ惚れとする光景で教皇庁お抱えの聖画師(マーラー)は意気揚々と筆を走らせカンバスを色で染める。

 側近の聖騎士らが教皇に儀仗を手渡し、ベネディクト1世は聖座から立ち上がりノアのもとへと歩み寄る。

「聖盾(シルト)をここに」

 ノアは背負う盾を捧げるように掲げた。

 聖盾(シルト)。

 上半身を隠せるほどの大きさをした長方形の盾。ロルム教皇国の聖騎士が愛用することからその名で呼ばれて長い。

「神は剣にではなく盾にこそ祝福を与えん」

 儀仗の先端を盾に置くと光が溢れた。比喩でも何でもなく。ロルム教皇国教徒衆が宿す神への信仰心が盾へと注がれていく。

それは信仰。あるいは崇拝。あるいは祈願。あるいは誓約。あるいは帰依。あるいは奇跡。あるいは洗礼。この世界では神を信じる想いが【力(フェイス)】となる。

「我らが大天使の愛をここに」

 はたして聖盾に込められたエネルギーはいかほどのものだったか。

砂人に長らく虐げられ続けた工人の末裔たるロルム人。苦渋に耐えながら己が神を信じ、大天使の愛を教典に刻み、繁栄の好機をじっと伺ってきた歴史を持つものども。

今やその勢いは止まることなく、教皇ベネディクト1世の統治によって世界はロルムの名の元で一つになる日も近かった。少なくとも大終焉(カタストロフィ)が訪れることが確定したあの日。五大災厄がこの世界に蔓延するまではロルム人はそう信じてやまなかったのである。

 世界が終わる。

 その事実に絶望する日々の中で。

「ノア・ミッドウルフ。其方を教皇国第一師団聖騎士団長(パープスト・アインス・ゲレヒティカイト)へと任ずる」

 彼らは希望の光を見出した。

 儀式が終わるとベネディクト1世はノアを連れて宮殿の奥へと進んだ。

 ノアは大輝石でできた石廊をしずしずと歩く。聖騎士として浅からぬ実務をこなしたノアでも、宮殿の奥部にこのような場所があるなど噂でも聞いたことがなかった。

「ノアよ」

 ベネディクト1世はノアの疑念に気付いたのか穏やかに声を紡ぐ。

「この石廊はある部屋へと繋がっておる」

「部屋ですか」

「石廊だけではない。この宮殿自体がそもそもその部屋にいる者を守護する為に設立されたといえば其方は信じるかね」

「……」

 ノアは声を失った。偉大なるロルム教皇国の中心部、教皇庁ロルム宮殿がただ一人の為だけに建てられたというのか。

「ノア。教典の2章8節を言ってみなさい」

「はい。大天使エムザは愛を語った。始祖ロルムは大天使の言葉を信じ同胞と共に反乱を起こし、砂人の支配から脱却した。この日こそがロルム暦の始まりである」

「そうだ」

 なぜここで教典などを諳んじさせるのか。ノアは思い立った事実に声を上ずらせた。

「まさか」

「大天使エムザは実在する」

「あれは教典だけの伝説では」

「言い伝えと事実は異なる。だが真実とは言い伝え以上に信じがたいものだ」

 ベネディクト1世の足が止まる。長い石廊の末にあったのは黒堅木で造られた重厚な扉。強い力(フェイス)を感じる。教皇は儀仗を扉にかざし聖言を唱える。

 はたして重々しく唸り声をあげた扉と共に、中から湿り気のある風と鼻腔を痺れさせるような強烈な酒気が溢れてきた。

「おーう、おっちゃん。こんちはー」

 それはノアにとって埒外の生き物だった。

 綺麗な桃色の髪。だが寝癖が放置されて酷いくせ毛。人形のように整った顔。しかし目やにはついていて酷くだらしない。見たことのない文字が入った異国の布服が面妖だ。しかも腰履きを履いておらず下着を露わにしている。何というかだらしがない。娼館などで働く娼婦などとはまた違う。相手の堕落しきった人間性が垣間見える姿である。

 ノアの目元がかすかに痙攣する。

 あろうことかベネディクト1世はその埒外の少女の前へ跪いた。

「大天使エムザ様。ご壮健で何よりです」

「おっちゃん、堅苦しいよー。えむざで良いって言ってるじゃーん」

「いいえ、大天使様にそのような口は利けませぬよ」

 ロルム教徒であれば目を疑う光景だ。あの教皇ベネディクト1世が年端もいかない娘に対して頭を垂れてあまつさえ傅いている。

「だから大天使ってのは苗字だってば。大天使えむざちゃんが本当に天使って訳じゃないのよ」

「ですがその翼が何よりの証。貴方は我がロルムを導きし大天使に他なりませぬ」

 そうだ。

 少女には翼が生えていた。布服を突き破り見事に伸びた白無垢の翼。あまりの鮮やかさに少女のたるみ切った格好など忘れてしまいそうになるほど力(フェイス)に溢れている。

「あー、これはモデリングっていうか。視聴者の信仰心(ファンド)の塊っていうか? クラウドファンディングって便利だよねー」

 って前にもこの話したじゃーんとえむざは気恥ずかしそうに笑う。そして手に持っていた葡萄酒を満たした杯に口をつけた。

「彼女が大天使エムザ?」

「左様」

 ベネディクト1世は入り口で立ちすくむノアに告げる。

「我々は彼女の預言に従い今日この時まで繁栄を許されてきた。我らがロルムの栄光は彼女と共にあるのだ」

「大げさだなぁ」

「いいえ、大げさではありません。始祖ロルムや歴代教皇たち、そして私も貴方の言葉を実行してきたに過ぎません」

「私は別にぃ、戦略ゲームならこんな感じじゃね?ってアドバイスしただけだしぃ」

 葡萄酒をちびちびと煽るえむざはどこか誇らしげに呟く。驚くべき事実であった。世界を統べる大国ロルムがこの娘の言葉一つで動いていたというのか。それが事実であればこの少女は一体いつの時代から生き続けているというのだろうか。

「しかし大終焉の日は近い」

 ベネディクト1世は重々しい空気を纏って話す。

「大天使エムザ様も預言の日は近いと仰っている」

「いや預言の日っていうかエンディング? 転生したプレイヤーが8人いるって話。アナウンスの内容からして私たちが1人になるまで戦いは続くし……五大災厄だっけ? そういうのも止むことはないみたい」

「大終焉を止められる真なる使徒はただ一人。五大災厄と偽物の使徒7人を滅ぼすことこそが我々ロルムの使命。すなわち大天使の愛。すなわち聖戦である!」

 ベネディクト1世が老いた身体に血を滾らせてそう宣言すると、えむざは困ったようにため息をこぼして頬杖をつく。

「だめだ、この教団のおっちゃんたちはすぐこうなるんだから」

「ノアよ。教皇国を守る盾にして聖なる鞭。教皇国第一師団聖騎士団長(パープスト・アインス・ゲレヒティカイト)よ! 其方はこの大天使エムザ様と共に7人の使徒を討ち滅ぼし大終焉を阻止せよ! そしてロルムに永遠の栄光をもたらすのだ!」

 裂帛の気合と共に吐き出された勅令。教皇ベネディクト1世は次代を築く若き騎士に教団の秘奥である大天使エムザの存在と共に教皇国の命運を託さんと考えていた。

 だが。

「ふ、ふふっ」

 ノアは笑っていた。最初は含むように笑い、それからこらえられないとばかりに声をあげて笑うのである。

「? 何を笑っておる」

 ベネディクト1世は不審に思った。はたしてノアという清廉潔白な騎士はこのような笑い方をする男であっただろうか。ノアの笑い方はどこか暗い影を落とす残忍な色を秘めている。そんな気がした。

 胸に。

 ベネディクト1世の胸にノアの振るう剣突が突き刺さった。

「がっ」

「お、お、おっちゃーーーん!?」

 えむざが目の前の惨劇に悲鳴を上げる。

 ベネディクト1世の口から血がこぼれた。だがノアの強襲に対して教皇は思いの外、冷静だった。携える儀仗をかざして聖言を唱える。

 それは聖なる道に通じる十の戒め。虐げられるロルムの人々を救う神の導き。銀の光でできた力(フェイス)の槍。敵を貫き大地へと縫い付ける天からの戒めの楔。

「降り注げ! 天楔槍(ヒィンメルゲイル)!」

 銀光をほとばしらせる力(フェイス)の槍がノアの頭上に降り注ぐ。

 ノアは聖盾をかざした。ロルム教徒の力(フェイス)を集結させた信仰器は無慈悲にも教皇の術を完璧に防ぎきりノアは右手に構えた剣を振るい教皇の肉体を容赦なく切り裂く。ロルム教皇国現教皇ベネディクト1世は最も信頼するべき教皇国第一師団聖騎士団長(パープスト・アインス・ゲレヒティカイト)の手によってその命を絶たれた。

 血しぶきが舞い、教皇ベネディクト1世だったものが散乱する中でノアはえむざに近寄り、えむざは奥歯をがたがたと震わせながら尻もちをついて後ずさりした。

「ひ、ひぃ、君いったい何なの!? 何でおっちゃんを!? 何でぇ!?」

「僕は砂人の生き残りなんだ」

 ノアは迷うことなく告げた。

「ロルム人は長い間僕たちを虐げてきた」

 ノアの青みがかった緑の瞳がえむざを捉える。

「やられたからやり返した。僕のやっていることは間違っているかな?」

「うっ、わ、分からないよ」

「そう。誰にも分からない。僕の行いが悪だと。いったいこの世界の誰に裁けるっていうんだろうね」

 ノアがえむざの翼に触れる。えむざはびくりと大きく震えたが抵抗することは躊躇われた。

「君は天使なのか」

「ひぅ、天使っていうか配信者ですぅ、中身はただのおっさんですぅ」

「君のせいで僕の同胞はたくさん死んだんだ」

「ひぅ、えむざちゃんはアドバイスしただけで」

「そう。君は啓示を授けただけだ。神の啓示をね」

 翼を握りしめる。

「いっ、いたっ、ひぃん」

「なら大天使エムザ。今度は僕を導いてくれ。僕は一体どうすればいい?」

「え……え、え?」

「どうすればいい?」

「ひぃっん! た、たぶん教皇殺しはさすがにヤバすぎるから……教皇は病に伏したってことにして新しい教皇を立てて、君が実権を握るのが良さそうな気がするけど。さ、三国志とか信長とかだと毎回そんな感じだし」

「…………」

「い、今なら大天使えむざちゃんの加護つき! らぶちゅ~! な、な~~んて!」

「……良いお告げだ」

 ノアは翼から手を離した。そして優しく手を差し伸べる。

「改めて自己紹介をするよ。僕はノア・ミッドウルフ。教皇国第一師団聖騎士団長(パープスト・アインス・ゲレヒティカイト)ノア・ミッドウルフだ」

「大天使えむざちゃんですぅ」

 えむざは半ばベソをかきながらノアの手を取る。

 教皇国を守る盾にして聖なる鞭。

 大国ロルムの信仰心を集結させた聖盾を操る鉄壁の騎士。

 そして教皇国を朽ちらせる裏切りの毒花。

 名はノア・ミッドウルフ。

 どうやら大天使えむざはこの狂気に満ちた笑顔の少年に己の命運を託さざるを得ないようだった。